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第一章:室町幕府について〜鎌倉、江戸幕府との違い〜
鎌倉幕府は源頼朝によって開かれた武士による政権ですが、その血筋はわずか三代で絶え、実権はこれを補佐してきた頼朝の妻、政子の実家である執権北条氏の手に移ります。北条氏はかつての同志でもある頼朝以来の功臣を次々と滅ぼし、そこに一族を守護や地頭として派遣し、独裁的で強力な権力を掌握することに成功します(時間はかかりましたが)。
徳川幕府の場合は、関が原の戦い〜大坂の陣の約15年間という短期間の内に対抗勢力を滅ぼし、いわゆる御三家を筆頭とする一族、あるいは先祖伝来の譜代の家臣を所領自体は少なくても(これは鎌倉、室町幕府の失敗を教訓としたのかもしれない)、全国の要地に配置し、その権力基盤としました。
では、足利氏を頂点とした室町幕府はどうか?という事になりますが、これは前記二政権と比べると、より連合政権としての意味合いが強いと言えます。
平氏である北条氏を倒すため、あるいはその後に成立した後醍醐天皇を頂点とした公家中心の建武政権を打倒するために、源氏の血統を引く足利氏を諸国の武士が旗頭として立てたというわけです。
鎌倉幕府も当初は関東の武士団による連合政権という面が強かったのですが、北条氏五代目の時頼の頃になると、専制的な政権運営が可能なだけの実力…執権本人、あるいは一族が全国各地の守護、地頭として君臨する状態になっていました。
ところが、足利氏の場合はそうした軍事的な力の源となる領地、御料所といったものが、初代尊氏から十五代義昭まで一貫して少ないのです。その一方で、将軍を支える大名達の中には数ヶ国の守護職を兼任する者もありました。
ただし、そうした守護の任命権は将軍が握っており、これを盾に足利氏は諸大名に対して有利な立場を得ていました。もちろん、全てが将軍の意向に沿うわけでもなく、有力守護大名同士で互いの突出を牽制する事もあるので、将軍の補佐役である管領や、将軍の側近グループである評定衆、政所に属する者たちの意向も大きく関わっていました。
そういう意味では、室町幕府は足利氏に代表権を与えた連合政権であると同時に、将軍とそれを擁立する守護大名たちとの権力闘争、パワーゲームの歴史であったとも言えるでしょう。そのパワーバランスが一気に崩れたのが、応仁の乱であったのです。
ただし、鎌倉源家将軍が三代で滅ぼされて実権を北条氏に奪われたのに対し、足利氏は滅ぼされる事はありませんでしたし、将軍に代わって幕府の実権を握ろうと考える大名も十五代将軍義昭の代、織田信長の登場まで待たねばなりませんでした。
六代将軍義教、十三代将軍義輝が暗殺されているという例もありますが、いずれもその死後、速やかに後継将軍が足利一族から擁立されており、幕府の枠組みは堅持されています。この暗殺された二人に共通しているのは、いずれも将軍権力の強化に意欲的であったことです。
十五代将軍義昭にもそれが当てはまりますが、彼は織田信長に京都から追放されてしまいます。信長は義昭の後継将軍を擁立せず、自ら京都の支配に乗り出し、更には全国にその力を及ぼそうとしていきます。この時点で室町…足利幕府の政権としての機能は失われた事になります。
第二章:足利尊氏について
一、足利氏について
将軍を支えた守護大名たちに関しては今後、応仁の乱などに触れる際に述べていく事にして、今回の本題である室町幕府初代将軍、足利尊氏に話題を変えましょう。
鎌倉時代、平氏を称する執権北条氏の統治下で、数少ない源氏の血筋を引く有力武士として、幕府の中枢に生き残ってきたのが、足利氏です。現在の栃木県足利市を拠点にしながら、三河地方(現愛知県東部)にも所領を持っていました。ただし、執権北条氏の独裁が強化され、北条氏側近らの発言権が増すに及び、鎌倉幕府末期には足利氏の幕政への関与の度合いは低くなっていたようです。
ちなみに、後に尊氏のライバルとなる新田義貞も源氏の一流ですが、義貞は上野国(現在の群馬県)新田荘の地頭、一地方領主の身分に過ぎず、鎌倉幕府統治下での両者の立場には大きな差がありました。
二、足利高氏を姓名判断してみる
足利尊氏は本来、「高氏」と名乗っていました。「尊氏」という名は鎌倉幕府倒幕後の元弘3(1333)年、29歳のときに彼を頼みとし、後に最大の敵ともなった後醍醐天皇の「尊治」の名から授かったものです。今回は「高氏」名と「尊氏」名、双方の画数で姓名鑑定してみようかと思います。まずは「高氏」からです。
天格数=14 人格数=17 地格数=14 外格数=11 総画数=28
天格数と地格数に凶相あり
総画数は28画、真面目な性格ですが、それが嵩じて負けず嫌いな部分が強くなる傾向にあります。源氏の名門という立場から、平氏である執権北条氏、あるいは京都の公家勢力に対する強い対抗意識などを抱きやすい性格の持ち主だったわけです。ただ、28という画数は健康面に悪影響を及ぼしやすい画数なので、割と怪我や病気に罹りやすかったように思います。
社会的成功運を示す外格数は11画、これは後の「尊氏」名でも変わりありませんが、いわゆる頭領数の一つで、決断力、行動力に優れ、指導者として人望を集める画数です。新たな政権の頂点に立つに相応しい画数の持ち主だったわけです。総画数とあわせて考えると鎌倉幕府の求心力が衰えてきたのを見て、早くから大志を抱いていたのでは?という印象を受けます。
人格数は17画…基本的には頑固で、一度決めた事は譲らないタイプですが、冷静沈着で喜怒哀楽の激しい、情に脆い面もある、魅力的な性格の持ち主です。
物事を分析するのが得意で、世間が物事を「あれは白!」と論じていても、逆に「黒」の面からも物事を見ることが出来る…見方によっては天邪鬼な所もあるのですが、冷静に判断する人です。それだけに異論を唱えられると総画数の性格も合わせて強い反骨心を表すように思います。
凶相に関しては運気の浮き沈みの激しさが病気や事故、トラブルとして現れます。ただし、そうした運気の激しさは晩年に至るにつれ、少なくなっていきます。性格的には積極性に欠けるといいますか、面倒くさがりな方向に歪む事が多いです。しかし、高氏が凄いのは、こうした自身の欠点を知ってか知らずか、これを克服し、自ら決起して道を切り開いたのです。
元弘3(1333)年、それまで鎌倉方として行動していた高氏は反北条勢力討伐のため、京都に向かう途中、後醍醐天皇に使者を送り、自らに鎌倉幕府討伐の綸旨を賜るよう、要請したのです。そして、鎌倉幕府の京都の治安を預かる六波羅探題を攻略、幕府滅亡のきっかけを演出したのです。
更に自ら武家の頭領の如く、全国の武士層に使者を送り、自身への協力を促します。この頃の高氏の行動はいかにも野心的でした。
三、足利尊氏を姓名判断してみる
次に改名後の「尊氏」名についてです。
天格数=14 人格数=19 地格数=16 外格数=11 総画数=30
人格数と外格数に凶相あり
総画数の30画は決断力に欠けた優柔不断で行き当たりばったりな性格を示しています。
尊氏の優柔不断さといえば、後醍醐天皇の吉野脱出を許し、天皇家の分裂を招いた南北朝時代を作り出した事の他、重臣の高師直の専横を許した末、弟忠義、庶子の忠冬との対立に発展する観応の擾乱を引き起こした事で、結果として当時の社会を大いに混迷させた事実に現れています。こうした混乱が収束するのは尊氏の死後、三代将軍義満の時代まで待たねばなりませんでした。
外格数の11画は「高氏」名時代と変わりありません。この画数に見られる決断力、行動力の冴えは総画数が示す優柔不断な性格と矛盾しますが、決断や行動の結果に良し悪し、浮き沈みの差が見られるようになっていると考えられます。
人格数は19画に変わっています。この画数の持ち主は良く言えば合理的、悪く言えば功利的で冷酷な性格の持ち主に見られる画数です。これは幕府初期には副将軍格として尽くしてきた実弟忠義を見捨ててしまった事、嫡子である義詮を引き立てる代わりに庶子である忠冬を冷たく扱い、ついには敵に廻してしまった事などに現れています。
凶相は増えても減ってもいませんが、違うものに変わっています。運気の浮き沈みも以前より激しくなっていますが、性格面で表裏があるといいますか、僻みっぽい、嫉妬深い面が現れるようになります。
一般に改名の効果がその人の性格、運命に現れるのは改名から2〜3年を経た頃と言われていますが、尊氏が湊川の合戦で楠木正成をを討って建武政権を打倒したのが、改名から約3年後を経た頃にあたります。つまり、足利尊氏が武家の頭領に相応しい活躍を見せていた時期と言うのは「高氏」名から来ていたように思えるのです。
改名前の姓名は総画数が凶数であるという点で不安を感じさせる姓名でしたが、改名後は総画数の凶数は消えていますが、代わりに人格数が凶数になってしまった上、征夷大将軍として武家の頭領に君臨するには相応しくない、混乱を呼ぶ姓名に変わってしまったというのが、足利尊氏に対する私の印象です。
延元3(1338)年、光明天皇より征夷大将軍に任じられた尊氏は京都室町に幕府を開きます。ところが、一度は光明天皇に譲位した後醍醐天皇が吉野に脱出して尊氏討伐の檄を飛ばすに及んで、二つの朝廷が同時に存在する前代未聞の事態が発生、全国を戦乱に巻き込んだ南北朝時代が到来したのです。
以来、54歳で亡くなるまで、時として一族重臣までも敵に回しての足利尊氏の苦闘は続く事になります。
参考:天格数14画の主な苗字
伊東、小野、酒井、細川、前田etc
人格数17画の著名人
小野寺章太郎:漫画家、石の森章太郎の本名
羽柴秀吉:戦国武将、織田信長の家臣、後の豊臣秀吉
馬場正平:プロレスラー、ジャイアント馬場の本名
原 辰徳:元読売ジャイアンツ所属、プロ野球選手、監督
竜造寺隆信:戦国武将、九州佐賀地方を統一するも、沖田畷の戦いで島津氏に敗れて討ち死に。
人格数19画の著名人
浅野長政:戦国武将、豊臣秀吉の親族、側近の一人で五奉行に任じられた。
上杉景勝:戦国武将、上杉謙信の後継者で米沢藩祖。
北野 武:映画監督、タレント
小泉純一郎:現内閣総理大臣
濱崎 歩:歌手、浜崎あゆみの本名
地格数14画の主な名
彰、淳子、哲夫、正信、由美etc
地格数16画の主な名
篤、薫、和明、隆史、雅子etc
外格数が11画の著名人
上原浩治:プロ野球選手、現読売ジャイアンツ
黒澤 明:映画監督
小西行長:豊臣秀吉の家臣、関が原の合戦で敗れて刑死
杉本高文:タレント、明石屋さんまの本名
中田英寿:サッカー日本代表選手
総画数28画の著名人
木村拓哉:歌手、SMAPのメンバー
楠木正成:南北朝時代の武将。足利尊氏に敗れて戦死。
鈴木一朗(イチロー):プロ野球選手、現シアトルマリナーズ
野村克也:元プロ野球選手、現楽天ゴールデンイーグルス監督
室伏広治:ハンマー投げ選手、五輪メダリスト
総画数30画の著名人
浅井長政:戦国武将、織田信長の妹を妻とするも、これに反し、敗れて自害
井伊直弼:幕末の大老、開国〜安政の大獄を推進した末、桜田門外の変で暗殺された
細川晴元:室町幕府管領、応仁の乱における東軍大将
松中信彦:プロ野球選手、現福岡ソフトバンクホークス
毛利輝元:関が原の戦いにおける西軍総大将
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…大体、以上のような内容で、毎月一回、第四土曜日に発行します。
第一号(3月25日発行)は「万人恐怖〜嘉吉の乱、足利義教、赤松満祐etc」を予定しています。
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黒矢龍作
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