 |
 |
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
心理学通信講座シリーズ
【 精 神 分 析 学 入 門 】
【第●号】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━2、無意識━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《1−1、誕生からパーソナリティの形成》
【図1−1、フロイト(Sigmund Freud, 1856〜1939】
http://www.hms-cs.jp/heal/koza-image/bunseki/bunseki1-1.jpg
ジークムント・フロイト)は、ウィーンに長期間住み、最後にナ
チスに追われてロンドンに亡命するまでウィーンで活躍した精神科
医で、精神分析の創設者です。
・・・・・・・・・・・・・・・・
《2−2、無意識の発見とヒステリー研究(1)》
フロイトは1882年、26才の時に様々な理由から、ブリュッケ教授
が開いていたウィーン大学生理学教室を辞め、臨床医になるために
ウィーン総合病院に移籍しました。そして1885年、29才の秋に、ブ
リュッケ教授達の協力によって、その頃、神経病学が盛んに研究さ
れていたパリのシャルコーのもとに留学し、学術的なことだけでは
なく、シャルコーの人格、殊に精神病理学への熱情などでも多大な
影響を受けました。またサルペトリエールではヒステリーの公開実
験を見て、そこでヒステリー発作には性愛的な傾向が存在している
事を知り、大変感心しました。この事はその後のフロイトに大きな
影響を与えています。ですがフロイトは、いきなりヒステリーと性
愛をつなげる事はしませんでした。
1886年、30才の時にフロイトはウィーンに戻り、開業医となり、
精神病の治療を行う事で暮らしていこうと考え、治療方法に催眠を
使用するようになりました。このようにフロイトが考えた一つの理
由としては、帰国して「男のヒステリーについて」という講演を行
った時に、大変批判をうけ、ウィーン医学界から離れなければなら
なくなったという事が挙げられます。
ですが、催眠を使用した治療プロセスの中で、どの患者にも催眠
を取り入れる事が出来るわけではないという事や、個々の患者達を
思った通りの深さの催眠状態に出来ないという問題が出てきました。
1889年、33才の夏、フロイトが留学していた時に知り合った南フ
ランスのナンシー学派の催眠暗示を再度勉強するために、数週間研
修に行きました。そこで直接的な暗示を使用する催眠の限界を認識
する事になりました。しかし、催眠中に与えられた暗示が催眠後も
続く、後催眠暗示の実験を見て大変感心しました。この出来事は、
無意識が存在しているという確信を持っていたフロイトの自信を深
めました。そして催眠の壁を突破するために、カタルシス法(※1)
を使用しました。このカタルシス法にフロイトを誘導したのが、ブ
ロイエルのO.アンナの症例でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・
[注]
・・・・・・・・・・・・・・・・
[参考文献]
・・・・・・・・・・
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
================================================================
心理学通信講座シリーズ【精神分析学入門】
ホームページ: http://www.hms-cs.jp/
発行・著者:杉本 京助(H.M.S.カウンセリング・ hmscs@hms-cs.jp )
【心理学通信講座シリーズ「精神分析学入門」の内容及び画像(URLに
よる案内含む)を無断で転載・複写・引用される事は一切禁止します】
====================================== H.M.S.カウンセリング=====
|